「下には下がいる」の「下」になるということ
「上には上がいる」の「上」になろうとすること。これは大体の人がやっていると思う。あえて「下には下がいる」の「下」になろうとする人は少数派だ。でもその少数派の人たちは偉いと思う。
と思ったのは先日クルミドコーヒーで行われた哲学カフェを経てのこと。テーマは
・完全にバカになれる時間はありますか
というものだった。このテーマは僕の挙げたもので、自分自身のふだんの経験から出た問いだ。
僕は自宅でよくバカになる。Web公開に耐えられる範囲内で言うと、「うんこ!」「ぷりぷり〜」「ぷりぷりうんちっち」「ぴょいぴょい」「おならちんこのすけ」「うっほほ〜い、おだ、のはらしんどすけ」「うんこのうんち」などの声を何の脈絡もなく発する。また、隣室に行こうとドアを開け、そのまま立ち止まり、お尻をふりふりする。よりシンプルな例では、小学生が牛乳飲んでる子を笑かそうとするときにやるハワイアンダンスの出来損ないみたいな踊りを前触れなく踊る。これをするときは1人ではなく妻がいる。妻は慣れてしまったのか特に触れてこず、せいぜい「なんなん?」と言う程度の反応。
おそらく何らかのストレス(恥ずかしい記憶を思い出したときに多い気がするが一概には言えない)を解放するときにこのような言動をとるのだと自分では解釈している。実際、事後にはおだやかな気分になることが多い。このような一連の行動、というか出来事って、みんなにもあるもんなのかな?という疑問がきっかけで、先述の問いの形になった。
このような話を先日の哲学カフェで大勢の老若男女に伝えたところ、意外にも深い議論が活発に行われた。また、恋人が僕と同様の行動をとっていた(ふと見たらお風呂の椅子を頭に被っていた)という方もいて、自分だけじゃないんだという安心感を頂けた。議論の中身は多岐にわたるためこの記事の中には盛り込めないが、いろんな話を聞く中で自分の得たひとまずの結論は「最初にバカになった人が偉い」というものだ。
犯罪などを除けば、バカになるのは必要なことだ。個人差はあれど誰でも社会生活を送る以上、ある種の抑圧を受け続けているからだ。抑圧をうまく解放しなければ、反社会的な行動となって現れかねない。でも人はバカになることをためらう。ちゃんとした人たちの前でバカになるというのは恐ろしいことだ。ただしバカの前でならバカになれる。つまり誰かがバカになっておいてくれると、他の人たちもバカになることができてみんな助かるというわけだ。自宅における自分の場合、バカになることができているのは、妻がある程度バカだからだ。この場合、バカは言い過ぎかもしれない。「ちゃんとしてない」「間の抜けた態度をしている」というだけで、低俗な言葉を発したりすることはない。ただ、他者のバカを許す土壌がそこにはある。
以上は「下には下がいる」の「下」を「バカ」としたときの例だが、他の尺度についても同じようなことが言えそうだ。世の中には自分に厳しくしすぎて身動きがとれなくなっている人が結構いる。まず自分がそうだ。ブログは始めるたびに自分でハードルを上げすぎて続かなくなることが恒例になっている。完璧なものを作る技量もないうちから完璧主義になっているのだ。自分の場合、そもそも完璧主義ですらなく、単に評価を恐れて書かなくなるのに、それを「完璧主義だもんで」とかっこよく理由づけしていたようにも思う。
別にブログなんて書きたくなかったら書かなくても誰も困らないわけだけど、「ゴミみたいなものでも発信し続ける」という行為は、ゴミをいっさい目にしたくない潔癖な人たちを不快にさせる可能性はある一方で、自分に課すハードルを無闇に上げすぎている人に対しては意味のある行動ではないかと思う。「あ、こんなゴミみたいな記事も書いていいんだ」って思ってもらおうなんて狙いを発表しちゃったらそれはそれで野暮ったい気がするけど、まあ、客観的に良い記事になろうがゴミ記事になろうがどっちに転んでも各々意味があると思っておけば書き続けられるかもしれないなと思ったという次第です。