政治は音ゲーのようにダサい
今日、だいぶ年上の方々と、政治の話をした。その中で「政治はダサい」という話が出た。ダサいですね、政治。めちゃくちゃダサい。僕はファッションについてはダサに無頓着なほうだけど、政治については自信をもって絶対ダサいと言える。政治は大事だとか、奥が深いんよと言われようが、ダサさの強さには敵わない。「ダサいとかそういう問題じゃない」と言うのもダサいし、「政治って実はこんなに面白いんです」的なコンテンツもダサい。
この、ダサいって感覚はなんなんだろうと考えたとき、思い出すのが音ゲーだ。「ビートマニア」など、曲のリズムに合わせてボタンを押していくゲームのことで、僕は高校生の頃にハマり、毎日のようにやっていた。ゲームセンターではなく家のプレイステーションでやっていたこともあり、ほかにどんな人がやってるものなのかは知らなかった。純粋に収録曲のカッコよさに惹きつけられていたように思う。
ある日、ゲームセンターに行き、アーケード版のビートマニアを初めて見た。ちょうどプレイ中の男性がいて、かなりの熟達者だった。僕が家でやってるときは、5つある鍵盤を両手で分担してどうにかこなしていたのだけど、その人は5つとも左手だけで軽々と処理し、右手をターンテーブル専用にしていた。ターンテーブルが要らないときは、ときどき右手を遊ばせるようなパフォーマンスも見せていた。そんなことができるんだ!と、驚きながら眺めていて、ものすごい速さの指さばきに見とれていた一方で、僕は「きもい……」と思ってしまっていた。
何より、その熟達者の身なりである。無頓着な自分から見ても、カッコいいとは言えない。少なくとも、トランスミュージックやドラムンベースを奏でる格好ではない。自分だって家ではパジャマでテクノを奏でてるわけだけど、ゲームセンターで、わりと本格的にデザインされた筐体と、そこにマジな顔つき、姿勢で臨んでいるプレイヤーと、しかしそれらに不釣り合いなファッション、髪型とを見ると、「うわぁ…」と引いてしまった。もっとちゃちい筐体で、プレイヤーも半笑いのふざけた態度だったりすればむしろナチュラルに感じてたであろうことを踏まえると、"不気味の谷"のような種類の気持ち悪さもあるかもしれない。ただ何にせよ、この日を境に「音ゲー=ダサい」になってしまった。
なんとなく、ダサいという感覚は、それ自体に向けられたものというより、そのプレイヤー像に対して生じてくるものなのかもしれない。音ゲーを家で黙々とやってたときは、曲の雰囲気等から勝手にカッコいいプレイヤー像を想像してたか、あるいはとくに固定したイメージを当てはめていなかったかで、ダサいとも何とも思ってなかったけど、実際にプレイヤーを目にすると、その人のイメージから他のプレイヤー像を連想して、全体にダサさを感じてしまったような気がする。最初からそのもの自体に向けてダサさを感じていたわけではなく、それを囲む人たちに関する断片的な知識から想像してダサさを感じているというか。
この感じはほかのものにも言えて、たとえば自分がダサいと思う靴(先端付近にいろんな大きさの小穴がたくさんあいた茶系の革靴)は、それを履いている人でカッコいい人を見たことがないからそう思うんじゃないか。イチローがそれを履いてるのを見た瞬間から、ダサくなくなるんじゃないか。実際、素敵な人が着ているのを見たことで、ダサいと思って避けてた服を着るようになったことは何度かある。
ちょっと強引だけど政治の話に当てはめると、政治そのものがダサいというより、いまの政治のプレイヤーがダサいということか。それは自分の知ってる政治関連の人にたまたまダサい人しかいないだけかもしれないけど、これだけ情報が豊富な世の中だし、自分以外にも政治に負の感覚をもってる人は多いし、やはりおおむねダサいんだろうと思う。政治について、あまりプレイヤーに意識を向けてなかった小中学生の頃を思い出すと、憲法の硬い条文とか、国会議事堂の荘厳なたたずまいとかに対して、言い知れぬ凄み、カッコよさを感じてたのはたしかなので、これは音ゲーと似た流れでダサく感じるに至ったっぽい。
どうすればそのイメージを拭えるのかを考えると、まあ、カッコいいプレイヤーを1人でも見つけたらいいということになる。僕の場合、自然科学に対しては、どんなにダサいプレイヤーを目にしようが、アインシュタインという絶対的にカッコいいプレイヤーの存在のおかげでダサさを感じることはない。つまりプレイヤーは故人でもOKっぽい。死んでてもいいから、政治のアインシュタインとでも言える人を知る必要があるのかもしれないな。それは、冒頭の先輩方のお話を聞くに、マルクスとかになるんだろうか。あとちょろっと検索したところ、ユリウス・カエサルなんかも凄いらしい。そこまでさかのぼらないといけないのか。