正直は難しい

人から「正直やね」と言われると結構うれしい。また、嘘を指摘されたり自覚したりしたときは結構引きずる。僕はいろんな美徳の中でも「正直」をひいきめに見ているような気がする。

正直は難しい。油断すると「赤裸々」や「露悪」や「直情」などと間違えてしまう。友達と正直な話をしようとするとつい「赤裸々」や「直情」に寄る。ツイッターで正直に何か書こうとすると「露悪」に寄る。欲望に正直になるのは簡単だけど、それ以外は難しい。

僕の中での正直の定義は「考えていること、思っていること、感じていることを、精一杯正確に表現すること」だ。ここには「考えていること、思っていること、感じていることをきっちり正確に表現することは不可能だ」という意味合いも込めている。人間は言葉で表現できうる以上のことを考えたり思ったり感じたりしているはずだということ、言葉にすると情報量が圧縮されるのと同時に解釈の幅が生まれてしまうということ、表現に際しては自分に利得のある方向にそれらを歪めてしまいがちになるということ、そのへんのところを前提にしている。

もし発言の正確さだけを尺度にするなら、正直者も嘘つきも、五十歩百歩で嘘つきになる。賢い嘘つきのほうが、無知な正直者よりも正確に物事を語ることもあるかもしれない。なのでやはり「精一杯」という要素を加えるとしっくりくる。「どう頑張ったって誤差は残るけれど、いまの技術でできる限り精密な測定を試みる」という真っ当な科学者の姿勢と似てるし、「神の存在を証明することはできないけれど、それでも神を求める道を歩もう」という敬虔な宗徒の姿勢にも通じるかもしれない。どちらからも気持ちの良い印象を受けるし、たぶんそれが僕にとっての正直へのモチベーションな気がする。

正直でいるには相当の努力が要る。たとえ嘘をつく気がなくても、ちょっと疲れてたり急かされたりするだけで正直さを損なったことは数えきれないくらいある。難しいことなので、その分できたらうれしいし、できてる人を見ると見入ってしまう。また、難しいことなので、「嘘つき」とされている人も悪気があるわけではないかもしれないという寛容な目を持ちたい。が、それもまた難しいことで、思い出したときたま~にできる程度だな。