自由にすると裁かれる

めちゃくちゃ昔、神話でしか語られていないようなどこかの世界で、人間の自由意志が認められておらず、全ては神様の意志が人間に降りてくることで為されているのだと信じられていた、というような話を聞いた。こういう共通認識のある世界では、人間は裁かれない。全部、神様がやったことなので。今は、人間自体が自由を持っているのだと信じられている。で、人間自体が裁かれている。ということは、どこかのタイミングで、人間自体を裁こうと思った何者かがいて、そいつが人間界にこっそりと自由を持ち込んだんだと見ることもできなくはない。というような話だった。

これを聞いて、「あ~、このブログのつらさだ」と思った。

もしもこのブログがおすすめの映画を紹介するコンセプトだったら、記事への評価は、おおむねその映画についての情報に向けられる。同じように、一貫して何かしらのテーマが設定してあれば、全然おもしろくないブログであっても、そのテーマの良し悪しに評価が向けられる。裁かれるのはテーマとかコンセプトとかだ。もちろん書き手の技量に対する評価もあるにはあるけど、少なくとも気持ちの中で別の何かのせいにすることはできる。

でも、「雑記」というタイトルで「自由にやってます」としてしまうと、裁かれるのは自分だけになる。記事がおもしろくなければ、僕がおもしろくないということになり、このブログへの評価、攻撃による全てのダメージを僕が負うことになる。これはなかなかつらいものだ。実際めちゃくちゃつらい(おかげで少し鍛えられた面もあるけど)。もともとはブログを続けていくうえでのハードルができるだけ低くなるようにこのスタイルをとったのが、実は恐ろしく厳しい道だったのである。しもた~!!!

それはそれとして、自由にすると裁かれるというのは、いろんなことを理解するのに役立ちそうだ。刑事責任能力とか、制服の必要性とか、岡本太郎の凄さとか。あと、自由にすると裁かれるって考えると、制約のありがたみも感じてくる。ルールとか制約って、集団の秩序を守るイメージはあったけど、自分自身をも守ってくれてるとは思ってなかったな。今いろんな不自由さを抱えている人は、その不自由が盾になって自分へのダメージを減らしてくれてると思ってみるのもいいかもしれないですね。しゃあないやんと言えるわけなので。