フィクションって必要ですね?

もし絶対に正しい真理をたまたま自分が得たとする。それは、知ったら必ず幸せになれることがらだとする。じゃあ、その真理を自分が誰かに伝えることは、良いことなんだろうか。直感的には良いことだと思う。むしろ、伝えないほうがおかしい気さえする。でも、たとえばこう想像してみる。パチンコ店から出てきた無精ひげの男が、通りがかった人にその真理を伝えたら。あるいは、フォロワーが10人足らずの人がSNSにその真理を書き込んでいたら。人はそれが絶対に正しい真理だとは気付かないか、かえってその真理に対する不信感を増すかもしれない。

そんなわけで、真理を直接表現することは避けられているのかもしれない。よほどの審美眼があれば別だけど、ほとんどの人は、表現に対して「誰が言ったのか」を抜きに評価することができない。「信じれば叶う」が本当だとして、それを不治の病から生還した人から聞けば「さもありなん」と思うかもしれないけど、路頭に迷っているように見える汚い男から聞いたら「あらあら」と思うだろう。

この仮定は、誰からも信用されているすごい人物にでもならないとなんも言えないのかよというけっこうな絶望感をもたらしてくる。僕も、書く側、受け手側の両面でその実感がある。偉い人が言ったことに嬉々として賛辞を送る人たちに「それ僕が言っても同じ反応したんか?」などと嫌味を言うことはできない。僕もやはり、夏目漱石村上春樹の書いている創作技法は参考にしても、同じことを単なる読書好きの人から聞いたら「ふ~ん」で済ましてしまう自信がある。

もっと残念なことに、夏目漱石村上春樹糸井重里マザー・テレサの言ったことでさえ、そこに権威を感じていない人からすると「ふ~ん」になる。それは過去・未来におけるどんな偉人に対しても同じことだ。直接表現されたことは、たとえ真理であっても、こんな調子で普遍性を持ちえないということになる。果たしてそれを真理と呼べるんだろうか、ということにもなる。

だから結局、フィクションが必要なんだろうな、と思った。こいつになら真理を言わせても普遍性があんまり損なわれないな、というキャラクターを作らないといけないんだろうな。で、知らないキャラがいきなり出てきて凄いこと言っても「え」ってなるから、そうならない程度の舞台とか物語とかが必要なんだろうな。ああそうか。そういうことか。そういうことですか?