知らない人と話したい

本当かどうか知らないけど、古代ギリシアの世界では、ソクラテスという哲学者が、街にいるそのへんの人たちに話しかけて、路上で哲学的な論を交わす、ということが日常的にあったらしい。そういう世界、めっちゃ憧れる。

現代では確実に警戒されるので難しい。自分はおっさんの中ではそんなに怪しくない部類だと思うけど、それでも怪しまれるだろう。また、多くの人にはスケジュールがあるので、道に迷ったとかそういう歴とした理由を伴わないかぎり、単に迷惑に思われかねない。ナンパであれば、動物として理にかなった行為ではあるので、相手の理解も早く、かえって怪しまれないし迷惑とも思われないかもしれないけど、哲学的な話、たとえば「あの、ちょっといいですか。正義のための暴力は許されますか。」なんてことをいきなり言われたら恐怖だろうな。

とはいえ、古代ギリシア的世界観をまだ諦めたくない。現代には現代なりのソクラテス的振る舞いのあり方があるような気もする。可能性のひとつはインターネット空間。ツイッターフェイスブックで知らない人にもばんばん話しかけてみる。これならそんなにハードルは高くない。せいぜい陰でクソリプと言われるくらいなもんだ。

で、実際にやってみる。そしたら意外と相手してくれることが多い。ただ、なんかお互い気を使い合ったやりとりになり、2往復ほどしたところでどちらかが相手の発言にいいねを付けてふわっと終わる。僕が思い描く古代ギリシアは、もっとゆっくりじっくり、時間を忘れて議論して、ときにはネチっこい問い掛けを繰り返したり、またあるときには感情的な対立も起こり、最後には解り合って握手かハグして、「じゃあな」の意味をもつ独特のボディランゲージを交わして西日を浴びながら別れるイメージなんだけど、なかなかそうはいかない。現代では、やっぱり時間は気にしてしまう。短期的には何の役にも立たないように思える話の場合にはとくに。(あと、文字だけのやり取りだと正確に伝えるのに苦労するし疲れやすいのもある)

さっき現代は警戒されるから難しいと言ったけど、それよりも"なにかと忙しい"のほうが影響が大きいのかもしれない。忙しさそれ自体の一次的な効果もあるし、相手も忙しいだろうと察してしまうことによる二次的な影響も無視できないように思う。そしてこの問題は、実際本当に忙しいから根が深い。自分に限って言えば、理想の世界を実現するうえでのラスボスは「忙しさ」なんじゃなかろうかと思えてきた。

「知らない人と話す」という目的からすると、このブログでしつこいくらい推している哲学カフェの場はわりと達成できているように思う。ただ、当然そこには「哲学カフェに興味をもつかんじの人」しかいないわけで、老若男女幅広いのは確かではあるものの、本当にそのへんにいるおじさんおばさんや、チャラい男やギャルやバリキャリや電通マンはいない。やや文化的な方面に偏っているとも言える。でも、それでも僕としては少しでもギリシア感の味わえる貴重な場なので、楽しませていただいている(哲学カフェの発祥はパリらしいですが)。明日は国分寺胡桃堂喫茶店で、明後日は西国分寺クルミドコーヒーで開催されるので(ほかにも各地でありますが)、朝に目覚められた人はぜひ行ってみてください。