タロウの手紙(1)

シゲルが昼食を済ませ自席に戻ってくると、机に二つ折りの手紙が置いてあった。タロウからだ。ここ二週間は毎日置いてある。シゲルから返信を出したことはない。エレベーターホールなどで顔をあわせたときに、読んだということだけ軽く伝える程度だ。とくに感想を求められることもない。タロウとしては、壁打ちテニスの壁が欲しいだけなのだろう。しかしこのままでよいのかどうか、シゲルは迷い始めていた。これまでのような肯定も否定もしない態度が、タロウの無内容な手紙を助長しているようにも感じる。事実、タロウの手紙は、初日の倍くらいに長くなっている。この日の手紙は、見るからに最長記録を更新している。よし、今日のこの手紙を区切りにしよう。今回こそちゃんと冷徹に評価し、それを漏れなくタロウに伝えよう。そう決意したタロウは、メモを用意し、手紙に目を落とした。

 

シゲさん

おつかれさまです。今日は5月26日ですね。初夏、という以外に、とくに何てことない日が続いています。毎年、たとえば正月みたいな特別な日に、その1年の中の、何ていうか「本番」みたいな日を想像するんですけど、今日みたいな日は結構本番なんじゃないかなと思います。意味わかりますかね。正月とかって、やっぱり1年の中の「かざり」というか「おまけ」というか、そんな感じしないですか? 人によってはそっちが本番だと言うかもしれませんが、僕の中の本番は5月26日とか6月17日とか11月6日とかです。年末年始にそういう日のことを思って、何ていうか、わくわくとまではいかないし、むしろ気分はちょっと盛り下がったりもするんですけど、なんか楽しみな気持ちにもなるんですよね。テレビ番組の改変期かなんかで、どこのチャンネルも特番ばっかりのとき、通常回が恋しく感じるやつと似ていますね。このたとえならバッチリわかったかと思います。

そういえば、「笑っていいとも」のことって最近考えてますか? 僕は考えてないです。さっきテレビのこと書いてるときにたまたま思い出しただけです。あれ終わるときって、結構「ひとつの時代が終わったな」って思いましたよね。でも、しばらく経つと、時代が動いたような感じはそんなにしないです。というか、僕はいいともってそんな見てなかったんですが、みんなどのくらい見てたんですかね。結構昔から不思議だったんですが、なんであんなお昼のど真ん中にやってる番組がテレビの代表みたいな顔してたんでしょうか。少なくとも学生は見れないですよね。会社員なら食堂のテレビとかで見てるようなイメージも、うっすらとですがあります。でも、実際にこの目でそういう光景を見たことは無い気がします。もしかしたら、僕は身内以外の人が「笑っていいとも」を見てるのを見たことがないかもしれません。それなのに、みんな「笑っていいとも」のことを「いいとも」って呼んでたり、各コーナーのお約束みたいなのに精通してたり、かなり親しんでましたよね。不思議です。みんないつ見てたんでしょうか。

こうやってテレビの話をしていますが、最近はテレビって全然見ないです。最近いつ見ただろうと考えたんですが、たぶん先月ヘルペス関連で行った薬局で見たのが最後だと思います。ミヤネ屋がやっていました。テレビをよく見ていたときにはそれほど気にならなかったですが、宮根さんって、やっぱりなんか"なんか"ですね。はっきりと言葉にはしませんが、"なんか"です。あとテレビって、久々に見ると気になるところが多いですね。あの、ニュースの詳細を説明するときのボードあるじゃないですか。あれで重要な部分をテープみたいなので隠してて、それをペロンってめくっていく進行のスタイルあるじゃないですか。あのとき、ペロンってしたら、その重要な部分の全体が見えるわけですけど、たとえばそれが2行にわたってるとして、2行目まで全部目に入ってくるわけですね。でも、司会の人は1行目から声に出して、棒みたいなのでなぞりながら読んでいって、その間はコメンテーターの人たちは黙って見守るんですね。で、2行目まで読み終わってから、笑うなり呆れるなりの反応を示す。ペロンってめくった瞬間にもう2行目まで絶対見えてるはずなのにですよ。反応を我慢してる時間があるんです。テレビをよく見てたときには気にならなかったんですが、これぞテレビだなって感じがしました。

あと、CMについても改めていろいろ思うところがありますが、それはまた明日にでも書こうと思います。

 

シゲルは読み終わると、右手のメモに目を移した。そこには「特番」「いいとも」「ミヤネ屋」「テレビ」の四つの単語が書かれているのみだった。シゲルは机の隅の小さな棚から、これまでの手紙が全部入ったクリアファイルを取り出し、今日の手紙とメモを差し込んだ。これを持って、今日こそタロウに厳しい講評を下すか、それともこのまま手紙をため込み続けるか。シゲルは、手元のクリアファイルに見つめ、首を少し振った。今は考えるのをやめておこう。決心は、午後の作業後の、疲れ切った頭に任せることにした。