義務論について
(前回の記事の続き)
http://dktkyk.hatenablog.com/entry/2017/05/02/104506
幸せを求めるだけでは世の中うまくいかないという話。その理由として
・幸せと快楽とは区別しにくい(そもそも区別があるのかどうかも疑わしい)
→快楽ではなく幸せを求める、というのは難しい
→判断を間違えて快楽に溺れてしまう人がたくさん出る
→快楽に溺れた人を、同じく快楽と区別のつかない幸せというものに基づいて生きている人たちは責めることができない(説得力がない)
というようなことを書いたつもり。今回はこれに次のことも付け加えて考えてみる。
・幸せは行為の「結果」である
先日、哲学カフェでこのような話をしていた人がいた。早稲田実業が新宿から国分寺に移転してきてから、西東京の高校の甲子園出場は絶望的に難しくなった。それでも彼らは必死に練習をしている。絶対に報われないと分かっていても努力することは良いことなのか?という問いだ。これに「報われないと分かってるなら頑張ったって意味がない」と答えるのが幸福論。本人にとって結果が良いものならそれに至る行為も良いことであり、結果が悪いものなら行為も悪いこと、という考え方だ。
逆に「報われなくても頑張るのは意味がある」と答えるのはどういう考え方か。それが「義務論」だ。高校野球の例では「義務」という言葉にしっくりこないかもしれず、最適な例とは言えないかもしれないけど、試合の勝敗や甲子園の出場という結果の良し悪しから行為を決定するのではなく、とにかく練習に打ち込むことを善とする考え方だ。
さっきの
・幸せは行為の「結果」である
に対比させて言うと
・義務は行為そのものである
となる。結果に善悪を委ねるか、行為そのものに善悪を委ねるか、というところに決定的な違いがある。どんな人も、行為の結果ではなく、行為そのものについて善といえることをすべし、という言い方をすれば、単なる快楽に溺れた行為を良しとすることとは距離をとれるんじゃないか、と思う。
でも、幸福論と同様、義務論についても解釈が難しいのには違いない。とりあえず自分がそのように生きてみて、その中でまた考えます。
なお、この義務論という考え方はもちろん僕のオリジナルでもなんでもなく、何百年も前から考えられているものです。代表例はカントの「定言命法」。僕には難しすぎて理解できていませんが、興味のある方は『実践理性批判』を読むかウィキペディア等で。
そしてカントのさらに千年以上前にも義務論を説いていた本がある。『バガヴァッド・ギーター』という古代インドの叙事詩だ。
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現代ではヒンドゥー教の聖典となっているのでちょっと宗教色が強くて敬遠され気味かもしれない。でも、物語の一場面の対話を描写したもので、カントとかに比べたらかなり読みやすかったです。短いし。カントは読めてないけどこれは読めたので、もうカント読まなくていいかな〜となっています。ちなみにバガヴァッド・ギーターは『マハーバーラタ』という長い叙事詩の一部ということで、冒頭にそれまでのあらすじが書いてあるのですが、そこは死ぬほど読みにくいです。しかしそこだけを見て投げ出すにはもったいない本だと思います。