「いい」にまとめられることの残念さ

「カモを眺めるのが好きなんです。カモって、飛んでるときは結構速いんですけど、着水した途端めちゃくちゃスローになるんです。あと、陸地を歩くときはオレンジ色の脚が見えて、それをよちよちさせてるのがかわいいんですよね。たまに潜って川底の藻を食べるときがあるんですが、そのときは水面からお尻だけ出してプリプリしてる感じになって、それもまたたまらないです。マガモカルガモ、どっちがいいかというと、僕はカルガモ派ですね。マガモもいいんですけど、あの緑色の頭がヘルメットっぽくて、ややイカツイというか、癒されるって感じではないんですよね。その点、カルガモは全身が癒しに満ちていますね」

「うんうん。やっぱり自然の中で動物を眺めるのっていいよね」

 

僕はよくこの後者側の人に対して残念な気持ちになる。口には出さないけど「そんな安易な言い方にまとめるなよ」と憤慨することもある。善良さの化け物に飲み込まれて跡形もなく消化されちゃったような気持ちにもなる。ここで力説したカモの魅力は確かに善良さにあふれたものだけど、それを「いい」の一言にまとめられたくはないんだよな。あと、自分の実体験の中の川やカモを「自然」「動物」って雑に一般化されるのも悶々とするところがある。あの可愛いカモたちが急にどっか行っちゃった感じがするんだと思う。

ただ、僕も後者側に回ってしまうことがよくあるので強くは言えない。自分に興味のないことを力説されると、早くその流れを終わらしたくなるんだろうな。真面目に乗ったり、掘り下げたりしたら、またその返答が長くなるのが目に見えてるもんな。なので、前者側になったときは、そういう後者側の気持ちも察してしまい、輪をかけて残念な気持ちになる。

ちなみに冒頭のようなやり取りは実際にあったわけではない。「たとえばこういう感じのやり取り」とご理解いただきたい。ただ、ここに書いたことは確かに感じていることで、カモはめちゃくちゃ可愛い。