帰り道はペットっぽい

会社を辞めて通勤がなくなったけど、同時に「毎日の決まった帰り道」を失って、それは結構寂しい。会社の嫌な思い出の多くは通勤と勤務中と宴会にあって、帰り道はだいぶ晴れやかな記憶として残っている。今でも外出の用事ごとに帰り道はあるにはあって、それも良いには違いないけど、毎日の決まった帰り道の情緒みたいなのはない。

幼稚園年少から会社勤めが終わるまで、なんらかの決まった帰り道はずっと存在しているもので、その影響もあり愛着を持ちやすいようになっているのかもしれない。何度も通ってるうちに、飼いならしたペットみたいになってきて、ジャンプを読みながらでも適切な角で曲がれるようになったり。ジャンプを読んでなくても、絶対になにか考え事してるんで、家に着いたら帰路の記憶がほとんど残ってなかったりもするけど、それでもちゃんと諸々の危険を回避しながら歩けていたことに、よくしつけられた犬への信頼感に似たものを覚えたりもする。進学や異動が近付くと、お別れを想像してそれなりに沁みていた記憶もある。

というようなことは通勤や通学も同じといえば同じだ。慣れてきて、「距離的には遠回りだけど信号の関係で早く着ける道順」なんかも見つけたりして。でも通勤・通学はほぼ確実に余裕を失ってるせいか、無機質で機能的な慣れ方になってしまう。帰り道のほうがやはりペットっぽい。寄り道とかあるし。ペット飼ったことないけど。

通勤・通学と帰り道とを比べると、こんな感じで帰り道の圧勝になりがちなので、逆に通勤・通学にも肩入れしたくなってくる。そういう気持ちでもう一回通勤・通学を思い浮かべると、あれは良かったなというのがあった。何かの拍子でかなり早く家を出たときの通学路だ。気持ちの余裕による効果も大きいけど、普段とは違う面々と一緒になる感じも良かった。しっかりした子が当たり前のような顔で歩いてるのを見ると格の違いを感じるものの、その子と自分を同格に捉えて、普段のギリギリの自分やその同類に対する優越感で満たされたり。あと、その堂々とした感じを引きずったまま学校に着いて、そんなでもない仲のやつに「おう」とか言ったりしてな。

でもそんな日は半年に1回あるかないかだから、やっぱり帰り道の圧勝で、かなり真剣に、帰り道が欲しいという動機だけでまた会社に入りたくなるときがある。