面白くないことを言う度胸

ずっと使ってた腕時計(貰い物)にカビが生え、手首がカビに触れて炎症を起こしていたので、去年、「時計クリーニング.COM」というお店にクリーニングをお願いした。

しばらくすると「お詫び」というタイトルのメールが来た。なんでも、時計を分解して洗浄した後、文字盤のケースを取り付けようとしたら傷を付けてしまったとのこと。完璧に丁寧なお詫びの言葉とともに「同等の時計を弁償させていただきます」とあり、お言葉に甘えさせてもらった。

で、件の時計と新品の時計が送られてきた。傷ってどんなもんじゃろと見てみると、全然わからない。もともとあった傷のほうが目立つ。全く問題なく使えるし、カビもきれいに無くなってる。手首も全然かぶれない。あと、代金と送料も返ってきた。なんと。時計を無料できれいにしてもらえて、さらに54000円もする新品まで頂いてしまった。え、こんな良いことがあっていいの???

この良心的すぎる対応に畏れを抱いたので、メールの返信で「是非ともまたお願いしたいです!」と伝えてリピートを誓ったものの、時計なんてそうすぐに汚れるもんでもない。時計にカビが生えてそうな知り合いもいない。圧倒的良心へのお釣り、なかなか返せないな…と思い、じゃあちょっとブログで紹介してみてはどうかと思った。このお店の存在を多くの人に知ってもらいたい。得をしすぎてる自分には、それを報告する義務がある。良いお店の情報だから、知りたい人もいるはずだ。

でも、書いてみて思った。この話、面白くないなと。お店の対応がもっとめちゃくちゃな感じだったらよかったかもしれない。一言の詫びもなくガッツリ傷が入ってたとか。お詫びの品がプリン2個だったとか。お詫びのメールはあったけど文末に頬傷入りの顔文字が入ってたとか? わからないけど、ツイッタースクリーンショットを貼りたくなるようなやつ。そういうのなら意気揚々とブログに書けるけど、今回の件は間違いなく善良な人たちによる善良さ溢れる出来事だ。ヤマザキパンの"神対応"みたいな派手さもない。個人としては珍しい経験だとしても、全国的には毎週どこかで起こってそうな出来事で、奇抜さも足りない。やっぱりブログに書くほどではないかな、と。

しかしさらに思った。「面白くない」という理由だけで、自分が書くべきだと思ったことを書かないのか……? それでいいのか……? 面白いと思ったことは書き、面白くないと思ったことは書かない……それって、価値観が面白によって完全に支配されているってことじゃないか……?

で、気付いた。本当にそうだと。僕は毎日、インターネットの面白いコンテンツを見すぎて、価値観を面白に支配されている。面白いことを言ってる人・知ってる人を尊敬し、面白くないものばかり発信してる人はスルーしている。どんな良いことを言ってても、面白くなければ「なんかキレイゴトなんよなあ」で済ましている。キレイゴトをいいねしてるところを面白い人たちに見られたら恥ずかしいなとか考えてしまう。

中には本当にひたすら面白くないだけのもの、面白いことを言おうとして失敗してるだけのものもあるとは思う。けど、面白くないことを承知の上で、大事なことや言うべきことを言ってる人もいるはずだ。面白教(面白を神とする宗教)の支配下にある限り、それらを取りこぼす。唯一の欠点が「面白くない」であるような、素晴らしく善良で正しい発信の数々をスルーしてしまう。これは意外と危ないことかもしれない。

で、また書く側に立ってみると、面白くないことを書くというのは、なかなか度胸がいることだと思った。読む人はほぼ確実になんらかの面白さを期待している。「時間を返して」とか「で、オチは?」とか怒られた経験も多々ある。そういう人たちの顔がチラつくと、最初に書いたような体験談もつい引っ込めてしまう。あるいは、脚色できそうな箇所を探してしまう。誠実な人たちに関するエピソードを不誠実で汚してしまう。それをあえてせず、面白くないけど大事なことを、面白くないまま正確に書くというのは、結構な度胸が試されるんじゃないだろうか。

そんなことできてる人いるんかな?と思ったら、ひとり思い浮かんだ。糸井さん……? いや、どうなんだろう。