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幸せをめざすだけで本当に良いのか

また哲学カフェに関連した話でくどくどしいかもしれないけど、実際に選ばれたテーマ以外について、考えていることを書こうと思います。

「哲学カフェ」についてや、当日挙がったテーマ等はこちらをご参照ください。

http://dktkyk.hatenablog.com/entry/2017/04/30/143343


この中で「あなたの幸せはなんですか」という問いに引っかかった。めちゃくちゃありふれた問いだ。何度も聞いたことがある。そのものズバリでテーマになることもあれば、たとえば「好きなことだけして生きていけるか」みたいな別の問いについて考えるときに、「結局、それぞれの人にとっての幸せはなんなのかってことだよね」みたいにして、先の問いが現れることもある。何かにつけて出現する普遍的なテーマだ。


このベタベタな問い、考えてみると難しい。なぜかというと、幸せと快楽の区別がつきづらいからだ。ある程度のお金、健全な衣食住、適度な娯楽、適度な社交などなど、幸せという言葉から連想するこういったものらは、単なる生物的な快楽とどう違うのか。また、こういう快楽的なものを排除して「他者への貢献こそが幸せだ」と言ったとしよう。しかしこれも貢献感、自己肯定感といった個人的な快楽を得るための大義名分では無いとどうして言い切れるのか。


自分も含め、たぶん大体の人は「他者貢献を伴うものこそ人間の本当の幸せだ、たとえ個人的な快楽であったとしても、その快楽は認められるべきだ」と考えると思う。でもこれって本心からそう思うというより、みんながそうであってくれたほうが世界は良くなりそうだからっていう、ちょっと実利的な発想のような気もする。深層意識にあるのは自分の身の安心安全、つまり他者貢献も伴わない素朴な生物的快楽なんじゃないか。


こういうことを考えると「幸せをめざす」ということに疑いが生じてくる。幸せをめざすということは、幸せを良しとすることにつながる。幸せを良しとすることは、単なる快楽を良しとすることと見分けがつきにくい。単なる快楽を良しとする人たち、たとえば違法スレスレのビジネスで大金を得る人、性犯罪を繰り返す人などを、「みんな幸せに」の文脈でどうやって責めることができるのか。もちろん他者貢献が云々と言えばもっともらしく説明できそうだが、そこまで説明しないと伝わらないなら、みんながめざすべきものとして機能してない気がする。わざわざ説明しなくても他者貢献の幸せを考えられる人は、徳の高い一握りの人たちだけ。つまり幸福論は有徳者の中で閉じていて、犯罪者やそうなる可能性のある弱者に対しては無力なんじゃないか、と思った。


幸福論を否定してみたとき、かわりになるものの候補には何があるか。ひとつは「義務論」だと思う。長くなったので別の記事でまた書こうと思います。

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